梅の偉人

和歌山県みなべ町は、今や梅の町で有名ですが、この礎を築いた偉人がいます。

その人の名は、

内中源蔵

慶応元年(1865年)に、現在のみなべ町となる山田村に生を受け、激動の時代を生きた偉人です。

もともとこの地方は梅栽培が盛んな地域だったのですが、ペリー来航に伴う開国で外国貿易が主流となり、生糸や絹織物の需要が増えたため、梅栽培より大きな収入が得られる養蚕業に業種が替えする農家が後を絶たず、その一帯では、梅がどんどん伐採され、桑が植えられるようになってしまいました。
しかし、内中源蔵氏の親類は、大勢が梅を伐採する中、どんどん梅を植え続けていきました。紺屋(染物屋)を営んでいた内中源蔵氏は家族で相談し、梅を植えることが村を豊かにする唯一の方法であると考え、紺屋の家業をやめ、一心不乱に梅農園の開墾を進め、当時としては、前代未聞の広さである4ヘクタール(4万平方メートル)もの梅林を作り上げました。
※ ちなみに東京ドームの広さは4.7ヘクタール(46,755平方メートル)なので、当時では考えも及ばない広さだったと思います。

さらに、当時の梅生産農家は、梅の加工を行わず、梅の加工業者にすべての梅実を販売していましたが、内中源蔵氏は、生産から加工まですべての工程を自ら行うことで、収入を拡大させた。このことが契機となって梅農家のキャッシュ・フロー!?は大幅に向上するようになりました。

梅干しは、赤痢の予防薬や日清・日露戦争、第1次世界大戦の際の副食物として、需要が大きくなり、この地域の開墾地は再び梅林へと変わっていきました。

もともと起業家スピリットを持ち合わせ、事業を拡大することを常に考えていた内中源蔵氏は、更に繊維工場を立てたり、新たな事業を朝鮮半島にも展開しようとしましたが、失敗しています。
晩年は郷里の親類のもとで暮らし、昭和21年(1946年)に82歳で亡くなりました。
昭和28年(1953年)には、梅の大産地とするべく村人を先導した功績をたたえ、南部梅林のなかに頌徳碑が建立されました。毎年2月には、碑の前で梅供養が催され、その功績が讃えられています。

内中源蔵氏が進めた梅の栽培は、現在に引き継がれ、のちに出来上がった優良品種「南高梅」の育成や選定により、より一層の進化を遂げ、全国一の梅の産地として注目をあびることとなっています。

現在の美味しい梅干しがあるのも、元をただせは、内中源蔵氏のおかげということですかね!

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