梅の歴史

梅の元をたどれは、中国にたどり着きます。
原産地は中国で、元々は梅干を食用として作ったわけではありませんでした。
漬物などを作るための調味料である「梅酢」を作った後の使いカス!?で、なにか使えないかということで、焼いたものを漢方薬として利用していたそうです。なので、もとは、食べるものというより薬ですね〜。

馬王堆漢墓(まおうたいかんぼ)は、湖南省長沙にある紀元前2世紀のお墓である馬王堆漢墓(まおうたいかんぼ)からも梅干がはいっていたと思われる壷が発掘されていて、この梅干が日本に伝えられたものとして考えられています。

ちなみに「梅酢」は、梅の実を塩漬けにすることで,食塩の作用により梅の外側の浸透圧が高くなり,水分(浸出液)が外側に出てきます。この水分と食塩が混ざった液体が「梅酢」で、やや黄色みがかっていて、梅に含まれる「クエン酸」を多く含んで非常に酸味が強いのが特徴です。
日本では、「塩梅(えんばい)」でとおっていて、これがいつしか「あんばい」と読まれるようになって、味加減をみることばである「いいあんばい」になりました。言葉になるくらいなので、「梅酢」は非常に重要な調味料だったようですね。

ちなみに、梅干を作るための下漬けで生産されるものが「白梅酢」、それを更に赤紫蘇(あかじそ)の葉を加えて赤くなったものを「赤梅酢」と呼ばれています。「赤梅酢」は、調味料として野菜の酢漬けや根野菜や魚の煮物に利用されています。

非常に重要だった「梅酢」は、クエン酸を主成分としていたので、傷口の消毒や金属のハンダ付け、青銅器や鉄器などの酸化防止皮膜処理など、様々な用途で利用されていました。さらに、東大寺の大仏に金鍍金(きんめっき)する際にも使われていたそうです。

工業分野では、昭和中期に「梅酢」に変わる「青酸」が登場し、それに変わっていきましたが、それまでは、大量に「梅酢」が使われていました。

それぞれの時代逸話

1.平安時代には、村上天皇が梅干と昆布茶で病気を直したという言い伝えがのこっています。また、菅原道真が、短歌に梅を好んで詠んでいたそうで、釣りの時に、梅干が入った弁当を持って行くと魚が釣れない!?という言い伝えのもとになっているとのこと。まーそんなことは釣りする人しか知らんやろって!?釣りする人も知らないかも。。。

2.戦国時代に入ると、保存食として活躍したことはもちろんのこと、傷の消毒や食中毒、伝染病の予防にはなくてはならない陣中食(じんちゅうしょく)でした。合戦中の合間に梅干しを見ると唾液が分泌され、脱水症状を防ぐ目的として使われるなど、梅干は戦略的物資の一つとされ、殿様達!?は梅の植林を奨励したそうで、現在でも梅の名所や梅干の産地として残っています。

3、江戸時代に銀を産出する鉱山では、坑内に立ち込める鉱塵(こうじん)による公害「けだえ(煙害による肺の病気)」が問題となり、その対策に、備中国小田郡笠岡村の石である宮太柱は、多くの「けだえ」の防止策を考案したが、その中でも、鉄の枠に梅肉を挟んで薄絹を張った防毒マスク「福面(ふくめん)」がクエン酸の効果で鉱塵(こうじん)を防ぎ、効果絶大で、これを元にして、坑夫たちの家族が梅紫蘇巻(うめしそまき)を弁当のおかずとして考案したものが、現在の寿司にもある梅しそ巻きになっています。

4.近代では、長期の保存が可能なため、開国以降の時代の兵士は携行食糧として、また遠い地で故郷を想う味として好まれて活用していました。現在ではほぼ皆無ですが、昭和時代には、ご飯に梅干1つだけのっている「日の丸弁当」は弁当の定番となっていました。日中戦争〜太平洋戦争期には、興亜奉公日(国民精神総動員運動の一環として1939年9月から1942年1月まで実施された生活運動で、毎月1日)と大詔奉戴日(太平洋戦争完遂のための大政翼賛の一環として1942年1月から終戦まで実施された国民運動で対米英戦争開戦の日(1941年12月8日)に「宣戦の詔勅」が公布されたことにちなんで、毎月8日)には梅干を食べることを推奨していました。
現在では、はちみつに漬け込んだ「黄金梅」や塩分調整をした「減塩梅」が主流となって、スーパー、コンビニエンスストアなどでも入手可能な状態となっています。

ということで、梅干の歴史を見てみましたが、知らなかったことがいっぱいですね!(逆に知ってるとビックリ!)

まーこれで、あなたもなんちゃって梅干フリークから、梅干博士への第一歩をふみ出したことまちがいなしです!!

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